CAMPFIRE 10周年を迎えて
こんにちは。梅雨時期はいかがお過ごしでしょうか?CAMPFIRE事業部 マネージャーの山田です。
CAMPFIREは2021年6月2日でサービスインから10周年を迎えました。10年は長いようで早いですね。非常に感慨深いです。
さて、CAMPFIREも10年の中でいろんなことがありました。私はというと。2014年・28歳の年にCAMPFIREにキュレーター(クラウドファンディングで何かに挑戦したい起案者さんのサポート・伴走をする役割)として入社しました。その後、PMやモバイルアプリケーション*の事業部長などを経験し、現在はCAMPFIRE事業部で地域・飲食・エンターテインメント関連の3つの領域のグループを担当しています。
私が入社をした2014年当時というと、”クラウドファンディング”といった言葉は日本ではまだまだ日の目をみない存在ではありました。そんな頃からクラウドファンディングの趨勢を垣間見てきてはや7年。当時からメンバーはガラっと変わり、私はCAMPFIRE社の中でも古参は古株の最長老になってしまいました。まがりなりにも私は、クラウドファンディングないしインターネットの可能性を信じていままで走ってまいりました。
そんな私が想う、CAMPFIREのいままでからこれからを綴れたら、と思い、いま筆をとっています。
写真は神宮前オフィスです。
クラウドファンディングの萌芽期
先に触れた通り、私が入社した2014年時点では、 “クラウドファンディング”は日本ではまだ一般的ではありませんでした。当時はCAMPFIREでも、月に10件掲載・2000万円ほどの流通額でした。
私がクラウドファンディングの運営に従事しているきっかけにすこし触れると。私は大学院で修士号を取得したのち、ふと海外の記事を読んでいて『自転車のエアバックが発動するヘルメット』がKickstarterで開発資金を集っていることを知りました。その記事やKickstarter、Indiegogoを調べるうちに「クラウドファンディング」といった仕組みに興味を持ちました。その頃、就職先を探す中で、「日本にもクラウドファンディングを運営している会社はあるのかしら?」と考え、数社に採用の問い合わせをした結果、いまCAMPFIREにいるわけです。
2014年から2016年は、クラウドファンディングといった当時は比較的新しいサービスを運営すること自体が楽しいことではありましたが、上記のような規模感から出口の見えない辛い時期でもありました(CAMPFIRE社には、私が編纂をした通称”聖遺物(アーク)”と呼ばれるCAMPFIREのありとあらゆる歴史書『Hitchhiker’s Guide to CAMPFIRE』があり、それを再編集しながら色々想い出を紐解いています)。
当時は原宿にオフィスがあり、そのオフィスも大好きではありました。そこでは、キュレーターとしてクラウドファンディングを通して挑戦される方々のサポートをしてきました。ミュージシャンから映画監督、ファッション、旅館、飲食店まで、幅広く扱っていました。彼ら彼女らがお金を集めて何かを始める、それを黒幕みたいに後押しする、といったことに充実さを感じていました。
キュレーターとしての役割を並行してその時は、CAMPFIRE magazineといったオウンドメディアを始めてみたり、起案者のみなさまに画面上からプロジェクトページを入稿してもらうページを開発してリリースしたり、支援金の振込の手配をしたり、CAMPFIRE Localを立ち上げてみたり。ここには書き尽くせないほど、少ない人数でいろんなことをしてきました。
そんななか。その当時は、弊社代表家入は、私からして年1回程度しか顔が見れない存在ではありました。しかしながら、そのときも彼は「あのプロジェクトどう?」とひとつひとつのプロジェクトを気にかけてくれていたことを思い出します。
怒涛のクラウドファンディング
そんななか、なんとか駆け抜けてきた2016年頭に転機が訪れます。ある日突然、家入が「手数料5%に下げる」と言いました。当時、クラウドファンディングの手数料の業界水準は15%〜20%。それを5%に。そんなとき彼の口からはっきり。
「小さな火を灯す。1人でも多く、1円でも多く。」
この標語をもとに、実際に手数料を5%まで下げ、クラウドファンディングを認知拡大・利用者拡大に思いっきり面舵にふりました。そして、オフィスは原宿から道玄坂下に移転。
狭いオフィスでしたが、CAMPFIREに賛同する・挑戦するメンバーも徐々に増え一致団結して「小さな火を灯す。1人でも多く、1円でも多く。」すなわちプロジェクトをたくさん掲載するぞといったことに躍起になってました。当時のメンバーと一緒に夜遅くまで短期間で数多くのアイドルのプロジェクトページのアドバイスを考えたり、とにかく躍起でした。
そんな道玄坂下ですごした2016年は”第二創業期”的な雰囲気があり、私のなかではいちばんの思い出でもあります。『GoodMorning』や『CAMPFIREファンクラブ(現『CAMPFIRE Community』)が生まれたのもこの時期でした。
そして、徐々にCAMPFIREの掲載件数・流通額も増え、オフィスは道玄坂上へ移転しそれから現在の渋谷東口へと移ります。
写真は道玄坂上のオフィスです。
とにかく多角なクラウドファンディング
2017年半ばからの渋谷東口。CAMPFIREのシステムの移管プロジェクトから始まったといった印象があります。
私はキュレーターをはなれ、その移管のPMをしていました。それから、フレンドファンディングアプリ『polca』が立ち上がります。『polca』事業は3年程度携わり、私にとってチャレンジングで感慨深いプロダクトでした。クラウドファンディングの認知が徐々に高まりつつあったなか、家入がある日突然アプリのモックと投資家向けpolcaプレゼン資料をslackにぺたぺたしだしたことから始まりました。polcaも「小さな火を灯す。1人でも多く、1円でも多く。」の思想を強く宿したプロダクトではありましたが、社内のリソースをCAMPFIREに集約する決断からくしくもクローズしました。なかなかこういったアプリに馴染みがなかった日本でのこのチャレンジは刺激的でした。いつかまたチャレンジしたい領域ではあります。
さておき、渋谷東口に移ってからは、地域に特化したクラウドファンディング『FAAVO』、ライブ配信で支援を募る一助になる『CAMPFIRE Fireball』、融資型クラウドファンディング『CAMPFIRE Owners』、株式型クラウドファンディング『CAMPFIRE Angels』、オンラインで仲間を集う『TOMOSHIBI』、共創プレイス『hibana』などなど、CAMPFIRE社の「小さな火を灯す。1人でも多く、1円でも多く。」のミッションを実現すべく、様々なプロダクトを吸収・創出し、いまでは購入型・寄付型・融資型・株式型の4類型のクラウドファンディングプラットフォームを持つ、古今東西見渡しても類を見ない、総合的なクラウドファンディング運営会社となりました。
これまでからこのさきへ
購入型クラウドファンディング『CAMPFIRE』は、10年のサービス運営のなかで、累計約5.2万件のプロジェクト、約450億円の支援額を積み上げてきました。また、さまざまなプラットフォームを通じて、さまざまな資金需要や仲間集め、コミュニティづくりにアプローチを図ってきました。
しかしながら、まだまだ5.2万件と450億円。”5.2万”という件数を人口に比すると、私の出生地でもある秋田県能代市と同程度。”450億円”という数字は、川崎市の新市庁舎ビルに当てられた予算と同等。東北のひとつの市・ビル1棟。グローバルなクラウドファンディング市場規模からしたら、まだまだ遠くはあります。
「小さな火を灯す。1人でも多く、1円でも多く。」
この標題をこの10年で実現できているか?を問うと、まだまだ、といったところが正直な所感です。
というわけで、いままでもこれからもCAMPFIREの存在理由・本質・アイデンティティはこの言葉に収斂して研ぎ澄まされています。信念として、とるべき行動として。この標語を常に変わらず貫いていきたいといったところではあります。弊10周年記念サイトにある、以下の引用のように。
これから先の10年も、私たちは、インターネットの可能性を信じ、
誰もが声を上げられる場所をつくり続けます。
どんなに小さな声であろうと、自由に表現や発信ができるように。
どんな立場の人であろうと、等しく金融にアクセスできるように。
テクノロジーを駆使して、共感や仲間、お金集めを支える新たなインフラになっていく。
そこから生まれる多様な経済圏を、毛細血管のように社会にめぐらすことで、すべての人が自己表現するように生きられる経済を実装します。
「小さな火を灯す。1人でも多く、1円でも多く。」それは脈々とCAMPFIREの全てのメンバーに染みつき、日々考えていかにしてやるか、をスピード感をもって考え、行動していると私は強く信じています。これからCAMPFIREにジョインする方にもぜひ共感いただき、これからの10年を楽しんでいければと考えています。
最後に、10周年を機に熱い想いをslackのオープンチャンネルに発信するメンバーのコメント一部をご紹介します。
リレー方式で、熱いコメントのシェアが数日続きました。
というわけで、長文駄文を連ねましたが、これからの10年をCAMPFIREとともに走っていくであろう仲間たちへ、Join us❤️